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10年を振り返ると

先日、もし鯛車と出会っていなかったら
どうしていた?みたいな話しを妻としていました。

妻いわく、あなたは自分勝手な性格だから今みたいに
人と接することはできなかったと思うよと。。
人にやさしくできるようになったのは間違いなく
「鯛車」のおかげだそうです。
当たりすぎていて何も言い返せませんでした。
もし10年前に鯛車と出会っていなかったら
いったいこの10年、
どんな生活を送っていたかとても不思議に思います。
今日は自分自身の10年間を振り返ってみたいと思います。

鯛車と出会っていなければ、
就職先は間違いなく東京だったと思いますし、
今の妻とどうなっていたかもわかりません。
今働いている会社は鯛車が縁で入ったし、
自分の子どもの名前も鯛車からとってつけた「あかり」。
今住んでいる家も大家さんである皆川さんと出会わなければ
一緒に改装して住むなんてありえませんでした。
家で飼っている犬も鯛車が縁で通っている喫茶店でもらいました。
そして、今一緒に過ごしている人たちは全て鯛車によって
出会った人たちです。

やっぱりこの10年、全て鯛車でしたね(汗)
書いていて再確認できました。。。
最近初めて出会う人たちにことごとく鯛車だけでどうやって生活しているんですか?
と聞かれます。これでも一応会社員として働いてます!!
ただ、いつか鯛車で独立することが夢のひとつでもあります。

今度、今まで関わってきたみなさんにも鯛車でどんな時間を過ごしてきたか
話しを聞かせてもらいたいですね。

そういえば、ガルベストンの大事なイベントの話ができていなかったので
次回はそれを書きたいと思います。
今日は私の独り言、
読んでいただきありがとうございました。

鯛車の師匠、高橋さん。

前にも少しお話しましたが、私には鯛車の師匠がいました。
名前は「高橋哲男」さんと言って新潟市と巻町が合併する前の
旧巻役場で助役をされていた方です。
巻にある日帰り温泉「じょんのび館」の初代社長でもありました。
高橋さんは助役を退任されてから鯛車をつくり始めました。

私と高橋さんが10年前に初めて出会った時には
私はすでに自分の鯛車の形を完成させていました。

では、なぜ師匠と呼んでいるのかというと
私は高橋さんと出会う前から高橋さんの鯛車を毎日見てきたからなんです。
私が中学生の頃、母が1台の鯛車を買ってきました。
それが高橋さんの鯛車でした。

以前紹介した鯛車職人の長谷川さんが亡くなってから
鯛車をつくり始めた高橋さんは奥さんの実家が葬儀屋さんで
鯛車をつくって一時期、卸していたんです。

これもすごい巡り合わせです。
それからその鯛車は実家のリビングのテレビの横に飾られ
毎日その鯛車と顔を合わせる日が続きました。
そして、大学の卒業制作に鯛車をつくろうと思って
最初に頭に浮かんだのがその鯛車でした。
私は高橋さんの鯛車から図面を起こし、自分の鯛車を完成させました。
なので私のつくった鯛車は高橋さんの鯛車にそっくりです。
それはそうですよね(笑)間違いなく高橋さんは私の師匠です。
そしてプロジェクトに参加して鯛車をつくったみなさん、
みなさんのルーツは高橋さんの鯛車です。

唯一巻にいた鯛車職人の長谷川さんは独自のデザインが特徴的でした。
(長谷川さんの記事はこちら↓)
https://taiguruma.com/blog/2014/07/blog-pos-31

ただ、高橋さんは鯛車を研究し、昔ながらの鯛車を再現していました。
それはとても素朴でシンプルなものでした。

10年前の高橋さんと自作の鯛車。

高橋さんは初めて会った時に、初めて会った気がしないくらいに

写真の鯛車のようなとてもほんわかした優しい方でした。
私が鯛車を広めたいという話しをしたらとても喜んでくれたのを
憶えています。
高橋さんは町の人たちが誰でもつくれるようにしたい、
だからつくりやすいように鯛車をつくるための道具を
色々と研究していました。
昔から巻に伝わった素朴で「これが巻の鯛車」というのを
いつかつくりたいね、とその時話をしました。
それから私と高橋さんの関係ははじまり、高橋さんの家に通っては
お互いの技術を話し合ったり、鯛車に関する色々な話しを
聞かせてもらいました。私にとってその時間はとても貴重なものでした。
その高橋さんが昨年の8月に病気で亡くなりました。
いつも応援していてくれた高橋さん。
高橋さんはあまり表に出るような人ではありませんでしたが
私たちの活動をいつも影で支え続けてくれました。
このままだと高橋さんが残してきたものは
ほんの一部の人間にしか伝わらない。
だったら、高橋さんを紹介する展覧会を開こう。

そう考えてプロジェクトの皆川さんに相談して
高橋さんの展覧会を亡くなった1年後のお盆に
開催することにしました。
お盆だったら鯛車を観にくる、たくさんの人たちに
高橋さんの残してきたものを見てもらえますもんね。
長くなりましたが、次回にこの続きをお話します。
「高橋さんが私たちへ残してくれたもの」
高橋哲男展
この展覧会、当初会期が9月28日(日)までだったのですが
好評につき11月末まで延長になりました!!
まだご覧になっていない方、
鯛の蔵2階へぜひお越しください。
毎週、土曜の午後13時〜17時、
日曜は9時〜17時まで開催中です。
高橋さんを知ってみたい方、
私たちプロジェクトのルーツを知りたい方、
ぜひお越しください。お待ちしています。

こんなことって!!

5月の東京での鯛車教室では、
ものすごいことが起こりました!!

それは、私が鯛車を広めようと思ったきっかけの人に
繋がります。

少しお話させてください。

真ん中は25年前の私です(汗)
まだピチピチでしたね。

だいぶ話しがさかのぼりますが、
私は小学校2年生の時に鯛車と初めて出会いました。
それが上の写真ですが、
お祭りで真っ赤な巨大鯛車を兄弟、親戚みんなで一緒に引きました。
この出来事があまりにも衝撃すぎて
ずっと頭の中から離れなくて、大学の卒業制作で
鯛車をつくることに繋がりました。

当時、鯛車を作っていたのが長谷川さんという
唯一巻で鯛車を作っていた職人さんだったんです。
私の祖父と同級生だったと聞いていたので
もしまだご存命だったら95歳といったところでしょうか。

長谷川さんは自宅で毎日鯛車を作っていました。
今巻に残っている鯛車のほとんどは長谷川さんがつくったもの。

鯛車教室3日目になんとその長谷川さんの弟と名乗る方が
教室を訪ねてこられました。

右が長谷川さんの弟さんで長谷川さんとは
10歳年が離れていたそうです。今は東京に住んでいます。

この弟さん、ネスパスに来たのが2回目で

2階にある観光センターにエレベーターで行こうとしたところ、
誤って3階のボタンを押してしまって
3階へ降りたら鯛車教室をやっていてびっくりしたとのこと。
こっちがびっくりです!!
こんなことってあるんですね。
しかもなぜこのタイミングだったんでしょう。
弟さんから長谷川さんとの思い出をたくさん聞きました。
長谷川さんと弟さんが東京の京王百貨店に行き
全国の郷土玩具が並んでいるのを見て、とても触発されて
鯛車をたくさんつくるようになったこと。
これも聞いたお話ですが
当時、長谷川さんは1度だけ鯛車教室を開いたそうです。
ただ、職人気質だったためにおしえるのがうまくいかず
やめてしまったとのこと。その後1人でひたすら鯛車を
つくっていき、町の米寿のお祝いの際に
1人1台の鯛車を贈ったり、伊勢丹などの百貨店でも
販売したり、お祭りになると鯛車行列をしたり
巻に鯛車を復活させたのが長谷川さんでした。
教室を主体にしている私たちとはやり方が違いますが、
長谷川さんの鯛車を広めたいという願いは
今でもずっと繋がっています。
私が大学で鯛車をつくろうと思ったとき、
すでに亡くなった長谷川さんのお宅へうかがったら
その日がちょうど命日であったり、私が生まれた年に鯛車を町に復活させたのが
長谷川さんであったり、今回の弟さんの件といい
何かと長谷川さんとはご縁を感じています。
長谷川さんとは一度も会うことはできませんでしたが
これからも長谷川さんの意思を後世に
繋げて行けたらと思います。

そして長谷川さんの意思を、
私たちよりも先に継いで町に広めようとした人物がいます。
その人物とは、私の鯛車の師匠の高橋哲男さんです。
師匠が亡くなってこの8月で1年が立つのですが、
師匠が残してくれたものを紹介する展覧会を
8月の13日のお盆から巻の「鯛の蔵」で開催しようと思っています。

また近々お知らせしますね。

只今、師匠の仕事場を再現しようと
準備に奮闘中!!

どんな風になるのかはお楽しみに!

Coming Soon!!

写真について

みなさんこんにちは。

毎週のように鯛車の修復が続いてますが
たまにはこんな話も. . .
鯛車復活プロジェクトには贅沢にも専属カメラマンがいます。
彼の本職はグラフィックのデザイナーですが、
写真を撮ることが大好きでいつもカメラを持ち歩いています。
彼は私よりも少し年下ですが、同じ巻出身で同じ大学の後輩にあたります。
鯛車のプロジェクトは私と知り合う前から知っていたようですが、
すぐには参加せずに遠くから見守っていたようです(笑)
少し?おっちょこちょいで不器用なところもありますが、
人を撮ることに長けていて
とても人間的なあたたかい写真を撮ります。
これは技術がどうとかではなくてセンスだと思います。
本人には直接こんな話をするとあぐらをかくのでしませんが(笑)
彼がメンバーに入るまでは私がすべて撮影していたのですが
彼がいてくれるおかげでだいぶ楽になりました。
すごく感謝しています。ありがとう!
先ほどから彼、彼と呼んでましたが、
石田くんというまだ20代の若者で、巻の楽器屋の息子です。
巻にも石田くんのような可能性を秘めた若者がたくさんいるはずです!
どうかみんな地元のために一緒に活動してみませんか。
興味のある方、連絡まってますねー!
石田くんは卒業制作で巻の浜を研究していました。
とても濃い内容です。写真から本当に浜が好きなんだなと
思わせてくれます。そして巻のまち歩きにも参加して
巻の様子も撮りためています。
ブログで紹介してますのでぜひ覗いてみてくださいね↓
巻の浜ブログ↓
巻まち歩きブログ↓
最後に石田くんの撮った巻の写真で
私のお気に入りの一枚です!

メンバーたちとの絆。

昨日から鯛車の修復作業が始まりました。
昨年大活躍の鯛車は和紙が破れていたり
骨組みが折れていたり、痛みが激しかったんです。
この子たちは私たちの活動を支えてくれる資金源です。
たまには化粧直しも必要ですよね。

前回は2年前に大がかりな修復作業をしました。
今年も同じような感じにはなるのですが、
こちらは2年前と違ってメンバーが増えているため
作業ペースもひと味違います!
それでは修復作業を見て行きましょう。

これだけの台数を修復します。
さすがに多いですよね!

痛みが激しいところは
和紙を全て剥がして骨の状態にします。

骨を追加して丈夫にしてから
貼り直します。
これは二人がかりです!

子どもと鯛が同じ格好をしていますね(笑)

長野教室の東澤さんから謎の飲み物が届きました!
飲んではいけませんよ。帰ったらでお願いします(笑)
この日はみんなで鯛の蔵の掃除も行いました。
ご婦人たちは掃除の腕がピカイチでした!!
見習わないと。

いつも教室では忙しくみんなでゆっくり話しをする時間がなかったので
今回はこんな時間もありました。

今回は自分にとって大きな出来事がありました。
それは、昨年から活動が大きくなり、
私だけでは色々なことに手が回らなくなってしまったことです。
そんなとき、メンバー数人がもっと自分たちにも
役割を回してほしい、できることはないかと声をかけてくれたのです。
他のメンバーはいったいどう思っているんだろう。
このプロジェクトを始めてから10年間、教室については
材料の調達、教室の事前準備、鯛の蔵管理など
できるだけ自分でやってきました。
それが裏目に出てのトラブルも今まではたくさんありました。

決してみんなを信用していなかったわけではありません。

みんながボランティアでいつも手伝ってくれていて、
日曜日の午前中、しかも働いている人たちにとっての大切な日曜日、
みんなより一回りも二回りも離れている若造についてきてくれる。
時には無茶なお願いも山ほどしてきました。
みんなはどんな気持ちで来てくれているんだろう。
もしこれ以上負担になってしまって、もう教室から離れていってしまうくらいなら
自分で全てやってしまったほうがいい。
そんな不安が常に頭の中にはあり、自分だけで完結させていました。
そして私が不在の時は長嶋先生1人に全て任せていたので
長嶋さんの負担は相当大きかったことと思います。
それでもやってくれていた長嶋さんには本当に感謝しています。
更に休みの日には家にいないことが多くて、妻にも相当迷惑をかけてきました。

このままでは全てがうまく行かなくなる。

朝、教室の前に長嶋さんに相談して、そのあと
みんなに思い切って話しをしてみました。
そうすると、
みんながこうしよう、ああしようと
色々な意見を出してくれました。
材料はお店の近くに住んでいる人が手配してくれることに
なりました。いつも材料販売の窓口は自分だけでしたが
それもなくなりみんなで共有することになりました。
そして暖かい言葉もたくさんいただきました。
自分が今まで抱えてきたことはものすごく小さなことだったのかもしれないけど
この10年間でみんなとつくってきた絆はものすごく大きなものに変わっていました。
私は本当に恵まれています。
いつも遠回りばかりしてまだまだ未熟な私ですが、
これからも宜しくお願いします。

そして更にみんなで話し合った結果、鯛の蔵は毎週もしくは隔週の
当番制で4月からオープンすることが決まりました!!
今まで特定の日以外ほとんど閉まっていて、遠くから来てくれた人には
残念な想いをさせていましたがこれからは
鯛車のプロフェッショナルがみなさんをご案内します。

4月からの鯛車復活プロジェクト、これからもよろしくお願いします!!

鯛車メンバーが「鯛の蔵」で個展をします!!

よくブログにも登場する鯛車復活プロジェクトのメンバーでもある
西方さんが、「鯛の蔵」で4月より個展を開催することになりました。
その名も「オモシロ手拭い展」です!!

西方さんは手ぬぐいの拾集家で自宅に山ほどのコレクションを
お持ちです。
今回はその一部を展示していただくことになりました。

展示作業の日にちょうど遊びにきた
プロジェクトの長の小林さん。
サングラスがカッコイイですね!
西方さんの奥様もお手伝いにきてくれました。
2人でああでもない、こうでもないと配置を決めていた姿が
とても微笑ましかったです。
少しだけおもしろい、手ぬぐいを紹介したいと思います。

うさぎが窓から覗いてます。
かわいいですね。
「ありがとう」と描いてあるのわかります??
還暦を迎えた方の愚痴がひたすら書いてある
めずらしい手ぬぐい。
ビール工場まで行って手に入れた
アサヒの手ぬぐい。
西方さんが作ったオリジナルの手ぬぐいです。
イラストも自分で描いたそうです。うますぎです!
西方の「に」のマークは昔の火消しのマークだそうですよ。
今度、鯛車の手ぬぐいも作ってもらいましょうか(笑)

鯛車だけに鯛の手ぬぐい。
会場はこんな風になりました。
もちろん鯛車も見れますよ!

80枚の手ぬぐいが飾られた鯛の蔵 2Fにぜひ遊びにきてください。
あたたかくなったら西方さんより
手ぬぐいのおはなしの日を設けてもらいますので
また日にちが決まったらこの場でお知らせしますね!

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話しは変りますが
先日、土田ディレクターと巻の商工会の方向けに
私たちの活動を伝える講演会を行ってきました。
DVDが流れないなど、トラブルはありましたが
私たちのやってきたこと、想いは伝えられたかと思います。
これからも機会があれば町の人たちに伝える活動も必要なのかなと
感じましたね!
説明をする土田さん。
土田さんの話しを聞いて改めて
10年も経つんだなと、しみじみ思いました。
新潟日報にも掲載されました。

町なかに住むということ。

ブログを楽しみにしているみなさん、お待たせしました。
そしてずっと更新できず、申し訳ありませんでした。
ずっと気持ちが乗らずに書けませんでした。

実はこのブログ、見てくれた方が毎日どれくらいいるか
統計がとれるんです。
こんな休みがちなブログでも多くの人が
毎日ここにきてくれていました。
1人、2人ではないんです。ものすごく多くの人が見てくれていて
それを調べるたびにすぐに書かなきゃと思って焦っていました。
でも義務化してしまったらここで書いている意味がないし、
書きたい時にまた再開しようと思っていたら
ここまで引っ張ってしまいました。
ただ教室やイベントごとの経過を伝えるんじゃなくて
自分の想いを、例え拙い文章でも自分の言葉で伝えたいと思って。

そして今急に書きたくなったので書きます!
前段が長くなってすいません。

今日は少し自分の話をさせてください。

私は4年前に結婚をきっかけに実家のある町のはずれから町の中心部の
商店街に引っ越してきました。
きっかけというのがすごくおもしろくて
プロジェクトのメンバーでもあり、大学の先輩でもある皆川さんが
巻の町なかにおもしろい物件があるから見にいこうと
誘われたのがきっかけでした。

築50年以上経過した古民家がとても安価で、しかも土地付きで
ハウスメーカーから出ていたのを皆川さんの兄弟が見つけたのです。
その後皆川さんがこの家を買い、
ちょうど結婚するタイミングとうまく合致したため
皆川さんが大家さんとなりこの家に私たち夫婦が住むことになりました。
家の内装には皆川さんをはじめ、私と妻、そして私の友達、
そして皆川さんの友達など
いろんな人が関わって少しずつ形になって完成したのがこちらです↓

以前、雑誌に掲載させていただきました。

まだ家は正直完成していないのですが、皆川さんが私たち夫婦の要望を
聞いてくれてすごく理想の住まいができました。
本当に感謝していますよ!

ただ、ちょうど家が完成した時に祖父が亡くなり、
一人暮らしだった祖父の家が丸ごと空いてしまいました。
皆川さんとは5年住むことを約束して今4年が経とうとしています。
家は人が住まないとどんどん痛んでしまいます。
国道沿いの祖父の家には5年が過ぎたら、
移ろうとずっと思っていました。

しかし、最近家もそうですが町に前よりも愛着が出てきたんです。
家から歩いて商店街に買い物に行けるのがとても便利です。
歩いて1分のところに美味しいお肉屋さんがあって、
クリーニング屋さんがあって、弁当屋さん、やきとり屋さんなどなど。
夏には商店街で行われる祭りのパレードの太鼓の音で朝目が覚めて、
夜は家の前からは打ち上げ花火がよく観えます。
季節が音や様子で感じられます。

国道沿いにいけば大型スーパーやコンビニがあってとても便利だと
思いますが、町なかでしか味わえないことが山ほどあると思うんです。
今年子どもが産まれて、よく商店街に散歩に出かけるのですが
歩いている人、買い物をしている人によく話かけられます。
近所の人には、ここの通りには何十年ぶりの子どもだと
自分のことのように喜んでくれました。

子どもが大きくなった時に自分の町のことを自分の口で説明できるように
なってもらいたいです。私の町にはこんなところがあって、こんな人がいてと。

私は巻生まれですが、父が転勤商売だったため子どもの頃から県内の
いろんなところを回ってました。それはそれで友達もたくさんでき
良かったのですが、自分の地元に対しての愛着を持ったのが
鯛車と出会った大学の頃からでした。
親の身勝手な考えかもしれませんが、子どもにはここでしか
味わえないものを小さい頃から感じてほしいです。

それでここを出て行くことに悩んでいます。
最近このことばかり考えています。どなたかアドバイスを。。。

みなさんにお待たせした鯛車の話はまたすぐに書きますね!
長くなってしまったので今日はこれにて。

これからも心の中で。

久しぶりの更新になります。

だいぶサボってしまいました。
楽しみにしていたみなさま、すいません。
ご迷惑をおかけしました。
9月からいろいろなことがありすぎて
とても書ける状況ではありませんでした。
まだ整理しきれてませんが、
これから少しづつ伝えていけたらと思います。
まず、どうしてもプロジェクトの方々、または鯛車に
関わっていただいているみなさまに伝えたいことがあります。
今年になって体調を崩されていたメンバーの1人が
昨日お亡くなりになりました。
鯛車復活プロジェクトを立ち上げから参加してくれた
第一期生の生徒さんで、昨年まで先生として活躍されました。
プロジェクトの中で一番元気でいつも大きな笑顔で
みんなを和ませてくれたムードメーカーでした。
誰もが間違いなくそう思っていたはずです。
今考えると、本当は辛かったはずなのにそのお人柄から
みんなには辛い面を全く見せなかったようにも思います。
私が最後に電話して声を聞いた時もいつもと
変わらない元気な声で応えてくれました。
もっと早く気づいていれば。何か力になれることが
あったかもしれないと今になって悔やみます。
その方は農家を営んでおり、夏になるとたくさんの野菜を
分けてくれました。お宅にお邪魔しては持ちきれないくらいの量の
野菜を持たせてくれました。
教室の最終日にはかならず自家製の漬け物を持ってきてくれて
メンバーみんなでいただくのを毎回楽しみにしていました。
昨年のちょうど今くらいの時期に妻と2人で
お宅へお邪魔した際に、熱々のおでんを鍋ごと持たせてくれたのが
昨日のように思えます。
さきほどお通夜に参加してきたのですが、会場入り口には
その方が作られた鯛車が二台、写真とともに並んでいました。
お経を詠んでくれたお寺様も鯛車の話を出してくれました。
亡くなったその方のご自宅の裏にお寺があり、
お盆になるとたくさんの鯛車で境内を飾っていたんですね。
それがすごく評判がよくて教室も始りそうな勢いだったようです。
また、近くの小学校に鯛車の講演に行ってもらったり、
とても鯛車復活に尽力を注いでくれました。
別れはとても悲しくて辛いですが、
きっとその方も私たちプロジェクトをいつもの大きな笑顔で
見守ってくれていると信じて、私たちはこれからも
この活動を続けて行きたいと思います。
頑張って長い間病気と戦ったぶん、
これからはゆっくりと休んでいただきたいです。
きっと霊前に飾られた鯛車が天国まで連れて行ってくれるはず。
鯛車は霊を慰める意味もあるのですから。
今まで言葉にできないくらい本当にお世話になりました。
たくさんの元気をもらいました。ありがとうございました。

この笑顔、ずっと忘れません。
心の中でこれからもずっと一緒に。

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